写真で綴る「日本の子ども60年」展

2006年2月5日号

白鳥正夫


「日本の子ども60年」 展覧会のチラシ

子どもは時代を映す鏡です。子どもの表情から時代を読み取ることもできます。社団法人日本写真家協会では、戦後60年記念として「日本の子ども60年」と題した写真展を企画しました。2月7日から12日まで京都市美術館別館で、その後16日から3月19日まで横浜の日本新聞博物館でも開かれます。2年余の歳月をかけ、プロ、アマの写真2万4000点の中から厳選された204点が展示されています。日本写真家協会が総力を上げて取り組んだだけあって見ごたえがあります。子どもの遊びを追って写真家になった萩野矢慶記さんの作品も2点が選ばれました。萩野矢さんのこれまでの取り組みを中心に紹介します。

原爆投下など「歴史の証言」

展覧会は昨年12月に東京都写真美術館を皮切りに名古屋・ノリタケの森ギャラリーを巡回開催。筆者は昨年末、東京会場で鑑賞しました。ほぼ同時代を生きてきたことになりますが、ともすれば記憶の彼方に忘れかけた戦後の貧しい暮らしを、そして懐かしい子どものころの遊びを、次第に豊かになって、移り変わる世相を見事に撮影した一コマ一コマに、時間を忘れて堪能できました。


東京都写真美術館での会場入り口

戦後60年、忘れてはならない光景から時を刻んできたのです。1945年8月6日、広島に世界で初めて実戦で投下された原爆です。その3時間後に被爆した子どもたちにやけどの手当てをする無残な姿が松重美人さんによって捉えられていました。そして広島の惨劇から3日後、長崎にも原爆が落とされました。山端康介さんは廃墟と化した町で、炊き出しのおにぎりを持つうつろな母と子を写しています。

貧しい戦後の街には、戦争で手や足を失った傷痍軍人の姿を見かけました。土門拳さんの撮った一枚は、幼い子をおんぶして歩く松葉杖姿の光景です。こんな時代があったことを知らない世代が国民の大半を占めてきました。ほとんどがモノトーンの写真ですが、歴史の真実に衝撃が走ります。写真はまさに「時代の証言」といえます。


土門拳「銀座を歩く傷病兵と子ども」1950年
※作品はいずれも『日本の子ども60年』(新潮新刊)から

写真展を企画した日本写真家協会の田沼武能会長は挨拶文の中で、「当時を知る人はなつかしさを覚え、後世の人たちにとっては戦後60年間、激動の日本を生きた子どもと社会の関係を究明する良き素材にもなろう」と書かれています。

この写真展に先立って、「写真家たちは見た 子どもの戦後60年」とのタイトルのNHK番組が昨年8月、関東・甲信越地区で放映されました。萩野矢さんからの案内で、後日ビデオで見ることができました。

その中で、写真展の発起人の一人で実行委員長の菅洋志さんは、現在まで32年間も子どもの写真を撮り続けています。昨年夏には沖縄の海に遊ぶ子どもの輝く表情を捉えています。そして「未来を託す子どもたちに何かをしなければ」との思いが、写真展を開くきっかけだったといいます。

萩野矢さんは、このコーナーの第39回「ウズベキスタンを知る写真展」でも紹介していますが、番組にも登場しています。67歳の萩野矢さんは、子どもの遊びに魅せられ撮りたいと、44歳で車両機器メーカーの取締役から写真家に転身したのです。

遊び場失い消える子らの笑顔


荒木経惟「遊びに興じる女の子」1963年

番組の中で、萩野矢さんはほぼ20年ぶりによく通った東京都足立区北千住の団地を訪ね、撮影した子どもにも再会していました。もちろん現在は青年になっており、当時の写真を見て懐かしんでいました。しかし、かつて子どもの遊び場であった広場は駐車場などで立ち入り禁止になっておりました。

この団地そばの公園で撮った最後のショットは集合時間に誰も来なくなり、一人で逆立ちをして遊んでいる子どもの姿だったのです。今回の写真展に出品された1点で、「逆立ちは叫びです。悲痛な叫びです。そういうつもりで私はシャッターを押したのです」と、萩野矢さんはつぶやきます。「これからどんな子どもが育っていくのでしょう」との危機感を胸に、団地通いに終止符を打ったそうです。

遊びを通して、成長していた子どもたちの社会は大きく変わってきました。遊び仲間と競ったり、助け合ったり、そして何より多くの時間を共有し語り合うことから遠ざかり、塾やゲームなどで一人閉じこもる傾向が強まるのです。こうした生活形態と犯罪の低年齢化は無縁ではなさそうです。


荻野矢慶記「出窓渡りの危険な遊びを創造」1980年

番組が放映されると、萩野矢さんの所へ多くの反響が寄せられました。「政治家は少子高齢の労働力減少と年金不足ばかり、教育委員会は舵取りもできず、人材教育の視点と行動が欠けています。よくぞ社会の問題を伝えてくれた」といった共鳴のファックスが届いたそうです。20数年前の取引先の相手から、脱サラリーマン萩野矢さんの生き方に関心を抱き「ぜひ会いましょう」の誘いもあったといいます。

萩野矢さんには、奥さんと小学生の2人の男児がいます。安定収入の道を捨てるのには勇気がいります。しかし「失敗したらもう一度やり直せるぎりぎりの年齢だと思った」と、転身の決断をします。上司や同僚から「そんなに甘くはない。バカなまねはよせ」と忠告されましたが、一途な萩野矢さんに奥さんも理解しました。

写真は独学の萩野矢さんでしたが、それなりの自信をもっていたのです。それまで趣味ながら応募した各種写真コンテストで数多くの入賞を果たしていたからです。しかしプロに転身後は、テーマを選んで撮りたくなったといいます。とりわけ「子どもの遊び」に夢中になったのです。冒頭に書いたように、遊びを失いつつある子どもの姿を追い続けたいと思ったからです。


萩野矢さんのもう1枚の出品作品。一人で逆立ちして遊ぶ子ども

プロ転身後に、個展「遊べ東京っ子」を東京のコニカ(小西六)フォトギャラリーで開きました。以後、毎年のように「子供に遊びを」「東京かくれんぼ」「東京の子供たち」「子ども新時代」「すばらしき一歳児」「街から消えた子どもの遊び」などの個展を各所で開いたのでした。

こうした実績が評価され、国際児童年に外務省が発行した写真集に採用されるなど順調なスタートを切ったのです。もちろん覚悟の退職だっただけに、持ち前の営業努力を続けました。毎日、撮りためた写真をカバンに詰め、売り込みのため出版社回りもしたそうです。

元来、「大人の遊び」とは無縁な人生だけに真面目一筋の取り組みでした。目標にしていた会社勤め時の年収が確保できるようになり、生活の不安も解消しました。今にしてみれば、子どもをテーマにしたことによって、順調に写真家への道をたどることができたのです。

子どもの遊ぶ姿求めて海外へ

子どもは本来よく遊ぶ。子どもの遊びの欲求は大人の想像をはるかに越える。子どもは遊びの中で様ざまなことを学んできた。外遊びを失った子どもは、能動的な活動を押さえられ、知識や知恵は生きて働く力にならず、ストレスもたまることだろう。子どもの時代に、外遊びを体験しないまま成長して、やがて社会人になることを考えると膚寒いおもいがする。


神立尚紀「阪神淡路大震災の現場に立つ被災児」1995年

萩野矢さんの写真集『街から消えた子どもの遊び』(大修館書店刊)の、あとがきに書かれた文章です。写真集には膨大な写真から精選した150余枚が収められています。そこには子どもたちの喜怒哀楽の表情が生き生きと捉えられていました。

萩野矢さんは、北千住の団地にしばしば足を運んだそうです。子どもたちは落ちると危険な団地のわずかな足場を綱渡りのように進んだり、背丈より高いゴミ置き場によじ登ったり、少々危ない遊びを楽しんでいました。遊び道具など無くても遊びを創造し、夢中になって遊んでいました。

かつてはどこでも見られた目を輝かせる子どもたち。その目の輝きが失われました。そしてこの間まで都会の街角や路地裏に溢れていた子どもたちの歓声や笑顔が、どこかへ消えてしまったのはなぜでしょうか。それは子どもたちが仲間や時間と、遊び場を失ったからに他なりません。子どもの遊びが街から消えた原因は、高度経済成長であり、受験勉強による塾通いであり、ゲーム機器の普及などです。


神山洋一「ゲームに興じる仲間たち」2001年

萩野矢さんの撮った写真は、戸外遊びが少なくなり、子ども文化が変容してきた意味を問いかけています。「私はちょうど時代の変わり目で、子どもの姿を撮ることができました。次第に街から遊びの消えてゆくのを実感しました。それはとてもさびしいことでした」。萩野矢さんは記録として遺された写真を見ながら述懐しています。

しかし急激な社会変化で、日本では、いい子どもの表情が撮れなくなりました。被写体の対象を「世界のこども」へ広げたのです。日本ではすっかり消えかけた子どもたちの輝く目と笑顔を求めて世界各地を旅しました。とりわけアジアに重点を置いて6年間に10万枚ものショットを撮ったといいます。

『アジアの子どもたち』(東方出版刊)には、ミャンマーと交戦状態にあったタイ・カレン族のふたごの屈託のない笑顔や、首狩り族といわれた東マレーシアー・イバン族の盛装の少女たち、ロバ車の手綱をさばく中国・ウイグル族の男の子たちなど20もの国と地域の子どもたちが収まっています。


子どもの時代を懐かしみながら見入る鑑賞者

萩野矢さんはできる限り田舎や辺境に足を延ばしました。そこで行き当たりばったりに写すのではなく、まず子どもたちと友だちになり、一緒に遊びながら撮るのだそうです。それだけ子どもの表情が和らぐからです。そこにはかつて日本でも見られた輝く目と笑顔があふれています。

今回出展された萩野矢さんの日本で撮った2枚の写真を見ていても、職を投げ捨ててまでのめりこんだ萩野矢さんの心情が分かるような気がしました。

写真展に合わせて発行された『日本の子ども60年』(新潮社)に作家の重松清さんが次のような一文を寄せています。

2005年の子どもたちへ。きみたちがやがておとなになったとき、もう一度、この写真集を開いてほしい。時代の流れによって姿かたちを変えてしまったものはたくさんある。だからこそ、逆に、変わらないものもくっきりと浮かび上がる。この写真集がきみたちになによりも伝えたかったものは、それだ。


しらとり・まさお
朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。

新刊
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて
 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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